志村けん - Wikipedia
志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 - )は、日本のお笑いタレント、コメディアン、司会者。本名、志村 康徳(しむら やすのり)。旧芸名および台湾での表記は志村健。
イザワオフィス所属。身長166.7cm、体重65.3kg[2]。血液型A型。
日本を代表するコメディアンの一人で、ザ・ドリフターズ(以下、ドリフと表記)の一員。
愛称は「志村」「けんさん」「しむけん」「けんちゃん」「ケン坊」など。
[編集] 付き人からドリフ入り
1950年、志村憲司・和子の三男として東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)に生まれ、厳格な家庭に育つ。本名の「康徳」は、父親が徳川家康を崇敬していたことにちなみ、頭の「徳」と尻の「康」をとり、逆さにした[3]。芸名の「けん」は、父親の名前「憲司」に由来する。
幼い頃、厳格な父親の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時まだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を見ていた時だけは、嫌な気持ちを忘れることができた。その時だけは、厳格な父親も笑いをこらえながらテレビを見ていたという。そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになった。
小学校時代、運動会で脱糞したことがあったという。東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントをしていたといい、所ジョージ(隣市・埼玉県所沢市出身)の遠戚とバンドを組んだこともあった。中学の頃から、将来はお笑いで仕事をやっていくことを決心したという。東京都立久留米高等学校に進学する。
1968年、卒業間際にザ・ドリフターズの付き人になった。この際、リーダーのいかりや長介が志村を強引に東北地方巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退の扱いにされてしまったと言われる[4]。2007年3月のブログでは、高校3年当時2月に付き人になり、3月の卒業式には参加したことを述べている[5]。
初めは由利徹の弟子になろうとした。ついでコント55号かドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年の2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中を夜中にいかりや本人が帰って来るまで12時間ほど待ち続けた。1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる[6]。当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。
加藤茶の付き人となる[7]が、1年余りで一度脱走[8]し、バーテンダーなどのアルバイトをしたりしていた。この時はいかりやの家に行き「1年間だけ時間をください。1年経ったら戻ってきます」と言ったが、当時夫婦喧嘩の最中だったいかりやからは「うるせぇこの野郎!」と無視された、と述べている[9]。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と、出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。志村は運転免許を持っていないため、無名の付き人だったにもかかわらず、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま、帰宅。加藤を差し置いて母親に晩御飯を用意してもらったり、先に風呂に入ったりという大物ぶりを発揮していた。
1972年、22歳の時にお笑いコンビ・マックボンボンを結成し芸能界デビュー。テレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』に出演するも、失敗に終わった(この頃の芸名は「志村健」の表記が多かった。なお「志村健」の芸名は、現在台湾で使用されている)。1973年12月、見習いとしてドリフのメンバーに加入する。
1974年、荒井注が脱退し、正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバーの加入を検討していたが、加藤の推薦により若手の志村が起用された[10]。当時、志村は24歳だった。
[編集] 「東村山音頭」でヒット
ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、志村にとってスランプの時代でギャグがあまり受けずに苦しむ。
転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向であった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これがいいということで、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり� �� ��特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した(詳しくは後述)。
ドリフのコントでは大概ボケ役だったのでボケのイメージが強いが、マックボンボン時代はツッコミ役であり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、メインのコントでいかりやの代役としてツッコミ役を演じたこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケ役に立て、自らはツッコミ役に回るコントもあった。1980年代後半以降の自らの冠番組でもツッコミ役が相当あり、現在も『バカ殿様』でダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とすことがある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、ボケ役はたけしが演じ志村はひたすらツッコんで話を展開させていた。
この頃、同じ渡辺プロダクション所属の二歳先輩である沢田研二との、コント内でのやり取りと息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ(詳細は#沢田研二との関係を参照)。
1979年には加藤茶との「ひげダンス」、1980年には「カラスの唄」が人気を博した。
1981年2月18日、仲本工事・『全員集合』番組プロデューサーの居作昌果と共に競馬のノミ行為の容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭け額が多額であった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭けた金額が1万6千円と少額であったことから起訴猶予処分となった[11]。とはいえ、この事件で1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがあるなど、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。ずっと後になり『ダウンタウンDX』に出演した際にもこのことに触れ、事件当時いかりやも賭けに加わっていたことを暗に仄めかしたものの、真相は明らかにしなかった。
[編集] 冠番組へ
1985年に『全員集合』が終了する。1986年に加藤をボケ役、自らをツッコミ役とした番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタートする(1992年まで)。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』(日本テレビ)、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ(現在は単発不定期で放送中))、現在も続く『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ)などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)などとの活動が多くなる。 この頃から「変なおじさん」に代表されるような、ドリフとは一線を画す独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。
1988年の大晦日には、当時フジテレビアナウンサーであった山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。しかし、1992年頃から前述のコントスタイルが飽きられ始め、以降数年間に渡り一時的な低迷期を迎える。
1996年にはゴールデンタイムのレギュラー番組を失い、フジテレビで深夜枠の放送となる「志村〝X〟」、「志村〝XYZ〟」、「Shimura〝X〟天国」の番組を担当した(2000年まで)。
[編集] 死亡説
1996年9月から10月頃、突如として「志村けん死亡説」が全国的に流れた。インターネットのあまり普及していなかった時期としては、異例の伝播だった。
噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」、「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」、「宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で煙草の吸いすぎが原因の肺ガンで死んだ」、「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」、「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない」(これは同時期に亡くなった渥美清が、遺言にて四十九日法要が済むまで公表してくれるな、と表記されていた事実からの引用だと言われている)、「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記� �� ��会見し健在をアピールする事態になった。
当然ながら志村は健康でこの時期入院を伴うような大きな病気やケガもしておらず、噂の発生原因は不明であるものの、この騒動が収まったのち、日本テレビのバラエティ番組「ダウンタウンDX」に志村とともに出演した高木ブーが自身が聞いた発生説として「この時期に「しむらけん」という同名の人が北関東地方(群馬か栃木かは不明)で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている。ちなみに、このことを志村自身は知らず、共演していた本人も驚いていた。また、同時期、志村の人気が一時的に低迷しゴールデンタイムの全国ネット番組が終了したことも噂の信憑性を高めたものと見られる。
高木が話した伝播元である北関東のうち群馬や栃木は、志村姓が多い。(他には甲信越3県も志村姓の多い県である。)これは志村一族のルーツが甲斐を発祥とし、元々は武田家の足軽頭を務めており、武田氏滅亡後に武田の家臣であった真田の所領地の上野・下野・信濃に逃げ込み、また信玄は「余が亡くなった後、窮地に陥る事あらば、謙信の世話になるように」と遺言を残しており、上杉景勝を頼って越後に逃げ込んだ者もいる。ちなみ新潟県には志村姓も多いが、いかりや長介の「碇矢姓の発祥の地」と、いかりや長介の息子・いかりや浩一が書籍(親父の背中)で公表した程、碇矢姓も多い。
なお、この騒動はちゃっかりネタにしている。騒動の直後に収録された、不定期放送番組『ドリフ大爆笑』の「公開コント」(母ちゃんコント)では、加藤茶に「あ、知ってる?志村けんが死んだってよ」とネタにされ、本人が苦笑しながらツッコんだ。また翌年の『志村けんのバカ殿様』では猿岩石との「母子コント」で「母ちゃんだって、死んでたって噂になってたよ」などギャグにされ、母親役の志村は「その頃『電波少年』で旅をしていたのになんで知ってんだよ」とやり返していた。
さらには、死亡説直後に放送された『志村X』の第1回放送では、コントの中で志村が「ガンじゃありませんよ!死んじゃあいませんよ!」というセリフをアドリブで入れて、笑いにしていた。
[編集] その後から現在
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなった。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎える。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べて露出度は穏やかなものとなっている。
ギフトカードをハックする方法
1998年12月30日夜、TBSの『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』の後半に、加藤と共に出演。
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